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児玉誉士夫の要請で上海に移住し興行会社を起業 淡谷のり子らを招聘【芸能界と格闘技界 その深淵】(日刊ゲンダイDIGITAL)

【芸能界と格闘技界 その深淵】#3

 中国最大の都市、上海。総人口は2419万6800人。首都北京を抜いて中国国内第2位(1位は重慶)。世界第3位となる。

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 野口進一家が移り住んだ1938年の上海は、英米日の共同租界とフランス租界、中国人居住区の3つに区分され、約10万人の外国人が住んでいた。共同租界の北側の虹口地区には約3万人の日本人が住んでおり「日本租界」と呼ぶ向きもあった。

■ディック・ミネらが日本軍を定期的に慰問

 野口家は、家長の進を社長に「野口興行部」なる興行会社を起業した。ディック・ミネ、淡谷のり子、ベティ稲田ら日本人歌手をはじめ、2代目広沢虎造ら浪花節の大スター、大衆演劇並びに剣劇一座などを常時日本から上海に招聘し、現地に駐留する日本軍に向けた慰問興行を定期的に催していた。これこそが児玉誉士夫の要請だったのだ。

 駐留する日本軍幹部ともつながっていた児玉はかねて慰問興行の開催を依頼されており、誰に任せるか頭を悩ませていた。一口に興行と言うが、容易なものではない。古株の大陸浪人から中国の秘密結社まで跋扈する当時の租界は、児玉誉士夫といえどもおいそれと手出しできない“魔界”だったのだ。

 そこで、獄中で親しくなった野口進の存在が浮かんだ。甲子園球場や旧国技館など大観衆の前で試合を行った人気ボクサーにして、元首相を殺そうとした壮士である。この男なら、名前も腕力も申し分ない。興行会社を起業させるのに、これほど適任の男はいないと踏んだ。

 かくして野口家が渡った上海は、第2次上海事変が一段落し、戦時中なのが嘘のように、比較的平和で自由な空気が横溢していたという。日本国内では、洋式の芸名を変えるように再三警告され、官憲に睨まれていたディック・ミネも、拠点を上海に移し気ままにジャズを歌った。淡谷のり子も早い段階から上海に拠点を移したと回想している。

 実質的に切り盛りしていたのは、母の里野である。京都生まれ。家出して上京し、有楽町や神保町のカフェで働いていたところを野口進と出会い結婚、20代にして早くも波乱の半生を送っていた。そんな里野は頭脳明晰、公用語の北京語もいち早くマスターし、ギャラの交渉のみならず現地人とのやりとりも一手に担っていた。

 この野口興行部は一見希少なように映るが、実はまったくそんなことはなかった。ルポライターの竹中労は著書「タレント帝国 芸能プロの内幕」(現代書房)で次のように定義している。

〈いわゆる“芸能プロ”の発生は、日本の軍国主義が強大となり、満州、中国から、南方(東南アジア)、太平洋と戦火をひろげていく過程と見合っていた。軍の恤兵部から委託されて、戦地、もしくは軍需工場への“慰問団”を組織する芸能社が簇出した。(中略)
ブッキング・エージェント(出演契約代理業)としての“芸能プロ”は、軍国主義とともに興隆した〉

 つまり野口家は、黎明期の芸能プロダクションそのものだったのだ。

 昭和40年代に、キックボクシングで大成功を収めた野口修が、その余勢を駆って芸能界に進出したのは、畑違いでもなんでもなく、ある意味、原点回帰だったということになる。このとき野口修は4歳。「格闘技プロモーターの元祖」と言うべき彼にとって、物心ついて初めて興行と出合ったのは芸能だった。このことが後年の野口修に与えた影響はまったく無視できない。(つづく)

(細田昌志/ノンフィクション作家)

提供元:Yahooニュース
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