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朝ドラ『おちょやん』の「家族の描き方」の凄まじさを、あらためて語りたい…!(現代ビジネス)

 5月14日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説『おちょやん』。クランクイン後に新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて撮影が中断、放送日程の延期や当初予定からの話数短縮などさまざまな制作上の困難に見舞われた本作だが、主人公・千代役の杉咲花をはじめとした出演陣の熱演や、人間味あふれるキャラクターたちの人生をときに陽気に、ときに重厚に描いた脚本・演出によって、非常に高い評価を得ることになった。

【写真】朝ドラ『おちょやん』、これまで過小評価されてきた理不尽なワケ

 主人公の千代は「大阪のお母さん」と呼ばれた昭和の名女優・浪花千栄子をモデルとしているが、物語の設定や展開にはさまざまな脚色・創作が含まれている。なかでも重要なのは、千代の「家族」への向き合い方の描写だろう。八津弘幸による脚本において表現されたのは、「家族」を絶対的な関係として捉えるのではなく、個々人がそれを自らの意志で選び直していくような想像力だったと、私は考えている。 浪花千栄子の著作『水のように』において、彼女の父は千代の父・テルヲ(トータス松本)と同じようなろくでなしとして描かれている。

 妻を亡くした後、千栄子と弟の幼い子どもふたりを育児放棄的に扱った挙句、再婚相手に入れ込む。そしてその女性の「弟はしょうがないがあの子はイヤ」という言葉を聞いて、わずか九歳の千栄子を女中奉公に出してしまう。

 奉公先でも勝手に給金を前借りするなど、父はドラマと同じく千栄子の人生を追い込むのだが、千代がテルヲに対して抱えた愛憎のような感情は、この本ではほぼ描写されていない。「なんとしても、昔の勤勉な実直な父にかえってもらわねばならぬ」と考えたという記述はかろうじてあるものの、基本的に父に対する苦々しい感情ばかりが書き連ねられている。

 その後、千栄子は最後の奉公先であった材木屋のはからいで遂に父親から逃げるのだが、ドラマと違い、この『水のように』では父についての記述はそこで途絶える。再婚相手の女性に関しても、幼少期の記憶として「悪妻の見本のような人」「親らしいことは何一つできず」「今考えますと全くあきれた人でありました」と辛辣な言葉が続き、そしてやはりその後触れられることがない。

 後年の千栄子が自らの親に対してどのような想いを抱えていたのかは、少なくとも『水のように』においては伏せられているのだ。

 対して『おちょやん』では、成長した千代が父・継母と直接対峙する光景が描写される。

 特に父・テルヲとのそれは苛烈を極めていた。自らの人生の辛さの一番の元凶となった父を憎む感情と、しかし肉親間の関係・記憶によって彼を完全に憎み切ることもできない感情とを、千代は心のなかに抱えて生きてきた。肉親であること、家族であることが生む愛憎の呪縛に、彼女は長く苦しめられてきたのだ。

 しかし死期を迎えたテルヲとの最後の対峙において、彼女はその負の呪縛を振り払う。これまでの自らの行いを懺悔し、ドロドロに泣き崩れるテルヲに対して(このシーンの舞台となる留置所の面会室が、まるで告解室のように見えてくる)、千代は「しぶといだけがあんたの取り柄やろ。どないえげつない手使てでも、うちにもっぺん笑てお父ちゃんて呼ばしてみ!」「しっかりせぇ!」と涙をこらえながら、しかし強い気合を入れて一喝する。

 「お月さんみたいな役者」=周りを照らし生かす役者だと劇中で形容されていた千代からの強烈な照り返しを受け、テルヲは我に返る。そして最後の気力を振り絞って、「上等や、やったろやないけ」と精一杯のふてぶてしい憎まれ口を叩き、ふたりは不敵に笑い合ったまま今生の別れを迎えるのである。

 ここにおいて千代は、「家族」であることが生む泥沼に打ち勝った。愛憎の混濁に溺れ肉親間で一体化してしまうのではなく、毅然とした意志の力で自らとテルヲとを切り分け、分離する。「うちはあんたを許すことなんか絶対にできん」という言葉通り、非道な仕打ちを繰り返してきた親を彼女は許すことなく(許す必要なんてない)、その上でひとりの人間としてテルヲに対峙することで、彼を恨み続ける地獄から脱し、本当の意味で自らを救ったのだと思う。

 笑って「お父ちゃん」と呼ぶか否かは、相手が血の繋がった父親であるということではなく、外ならぬ自分自身がそうしたいと思えるかどうかで決めること。そしてテルヲも、恨まれ続けることで娘を救おうとするような甘えから脱し(彼は当初は泣きながら、「恨まれたまま死ぬ方が、おまえ悲しませんですむさき」と語っていた)、最後の最後で自分自身の足で立ち、千代というひとりの人間を直視してから死んでいくことで、救済されたのではないだろうか。

 千代と継母の栗子(宮澤エマ)との対峙もやはり、ひとつの救済として描かれる。『水のように』で描かれる継母とおなじく、幼い千代を家から追い出した栗子だったが、その後テルヲとの間に生まれた女の子を連れて、彼女もまた家を出ていたというドラマ独自の物語が展開される。

 シングルマザーとして育てた娘とその夫を戦争で亡くし、孫の春子(毎田暖乃)と共に暮らしていた彼女は、離婚により行き場をなくして、生きる気力を喪失していた千代を家に迎え入れる。そして自らの過去の行いを深く詫び、親のいない子である春子を千代に託す。『水のように』における記述とはまったく異なる、完全なフィクションである。

 この展開のなかで、栗子と千代はかつての不幸な出会いを乗り越え、押し付けられた関係としてではなく、互いをひとりの人間として認め合いそれぞれの意志で出会い直す。千代が役者を始めてから差出人不明で贈られ続けていた花籠の送り主が栗子だったことも明かされ、彼女は千代の芝居を観ることが自分の生き甲斐になり、生きていくための元気をもらっていたと語る。栗子が千代によって生かされていたことが描かれるのだ。

 そして「あのとき栗子さんは、春子の世話をうちに頼むことで、うちのことを生かそうとしてくれたんや」と千代が回想するように、栗子もまた、自分がテルヲと結婚し千代の継母になったことから生まれた因果を跳ね除けるように気力を振り絞り、これまで自分が生かされたように、今度は千代を生かすために行動した。

 「千代。きばってや」という静かな栗子の言葉は、千代がテルヲに言った「しっかりせぇ!」という激しい言葉と、同じ響きを持っている。同情や憐憫でドロドロに溶け合うのではなく、背中を叩くように喝を入れて励まして送り出し、自分と相手との境界線を引くことでむしろ、生かし合い支え合うことができる。

 「血が繋がっていようといまいと、そないなことどないでもよろしいのや。春ちゃんはもう、うちの大切な家族だす。一生うちが守る。栗子さんも、そうやで」という千代の言葉から、彼女にとって「家族」とは、血縁関係や制度によってつくられるものではなく、しっかり「きばって」生きていくために、お互いを認め励まし合うことで形成されるものであることがわかる。

 5歳のころに生き別れた実母・サエ(三戸なつめ)が、心のなかで常に自分を支え励ましてくれる存在であったように、千代も「血が繋がっていようといまいと」、他人を力強く支える。因果をはね飛ばして精算し、互いにひとりの人間同士として出会い直すことで家族が新しく編み直されるような光景が、ここにはある。

提供元:Yahooニュース
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