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ジャパネットたかた創業者の高田明さんは社長退任から10年…「あと40年、117歳まで生きる」【あの人は今】(日刊ゲンダイDIGITAL)

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【あの人は今こうしている】
高田明さん
(ジャパネットたかた創業者/76歳)
テレビショッピング番組をよく見かけるようになったが、この人のMCはインパクト抜群だった。ジャパネットたかたの高田明社長(当時)だ。社長自ら訛りのある高い声で、熱く商品紹介をする姿が懐かしい。高田さん、今どうしているのか。
【写真】「つぶれない店SP」が共感呼ぶ 高田明氏“成功譚”の説得力
◇ ◇ ◇
高田さんに会ったのは、長崎県佐世保市日宇にあるジャパネットたかた本社3階の応接室。高田さんは2015年に同社社長退任後、個人事務所「A and Live」を立ち上げ、ジャパネットたかた社内に家賃を払って間借りしているのだ。
「社員は秘書など5人。私のスケジュール管理などをしてくれています。といっても、私が出社するのは週3、4日。こうした取材があるときや、何かアドバイスを求められたときぐらい。もう76歳、あと4年で80歳ですから」
高田さん、まずはこう言った。少し痩せたようだが、グレーのハイネックとスーツをオシャレに着こなしている。
「100%、妻の見立てなんです。私自身はファッションやショッピングに関心がなく、結婚後、自分のものを買ったのはたった2回。1回は、詳しくもないのにブランドのシャツを買って家族に不評をかい、もう1回はドイツでジーンズを買ったら、カード会社が心配して『ご自身の買い物に間違いないですか』と確認の連絡がきたくらいです」
えー、あれだけ売りまくっていたのに!
「食にもそれほど興味がなく、もともと1日1.5~2食と小食。お酒は大好きですが、この頃は弱くなり、夜、日本酒をコップ1杯飲んだら、すぐ眠ってしまうんです」
物欲、食欲もない、とは。
「女性に対しても関心が薄く、結婚前には両親に心配されました。それが、今の妻と会った瞬間、『この人と結婚するかもしれない』と。感覚が合ったのでしょう(笑)」
27歳のとき、5歳年下の恵子夫人と結婚。夫人はジャパネットたかたの副社長を長年務め、高田さんを公私ともに支えた。高田さんが還暦のときに建てた家に2人で暮らす。66歳で社長を退任した直後は、本を出版。年間100本以上、全国を講演して回った。
「今は、お付き合いのあるところから依頼があるときくらい」
17年には、ジャパネットのグループ会社となった、Jリーグのクラブ「V・ファーレン長崎」の社長に就任。経営危機にあったクラブを救った。
「本社のある諫早市まで、車で片道1時間以上かけて通っていました。講演をしながら、アウェーの試合にもほとんど足を運びましたから大変でした」
■孫は10人。ウチはみんな仲が良い
高田さんの1男2女の子どもたちは各方面で活躍中だ。
「孫は10人。ウチはみんな仲が良く、家族のラインでも頻繁にやりとりしています。1日見ていなかったら、50件もメッセージが入っており、読むだけで大変で、それも仕事(笑)。あとはテレビでもっぱらニュースを見たり、新聞や本を読んだり、ですね」
ジャパネットたかたを引き継いだ旭人社長は、さらに大きく会社を成長させ、昨年10月には、長崎駅そばにスタジアムやアリーナ、ホテルなどの複合施設「長崎スタジアムシティ」を開業した。
「長崎スタジアムシティでサッカーのV・ファーレン長崎、バスケの長崎ヴェルカの試合を観戦するのはいつも楽しみです。会場いっぱいのファンが一体になって、選手に熱い声援を送るのを目にしたら別世界のようで、胸が熱くなります。長崎・佐世保の小さなカメラ店が、これほど大勢の人に感動を与えられるようになったとは。(旭人)社長はたいしたもんだな、と息子ながら感心しています」
事業承継に成功したのは、高田さんが会長などとしてとどまらず、スパッと手を引いたおかげか。
「私は通販でいろんな商品を販売してきましたが、実はもっとも苦手だったのがITなんです(笑)。これからの時代、ITに詳しくないとトップの役割は果たせないんじゃないかと強く思っていました。しかも、働き方は昭和。こんな私が会社にとどまっていたら、今頃、老害と言われていたでしょう」
■「夢持ち続け日々精進」の言葉を大事に
さて、長崎出身の高田さんは、25歳のとき、平戸の実家のカメラ店を手伝い始めた。
86年に分離独立し、佐世保に「株式会社たかた」設立。カメラ店からラジオショッピング、テレビショッピングへ進出し、99年「株式会社ジャパネットたかた」へ社名変更。01年に自社スタジオを開局。自らカメラの前で全国へ発信し、年商1700億円超の会社へ成長させた。
「特別なことは何ひとつやっていない。ただ、ひたすら目の前の課題を日々必死にやって、“伝えること”を極めたい、と思ってきた結果、会社が少し大きくなっただけ。そのぶん、私は他のことには疎くなって、90~2000年代にはやった音楽や映画、アニメなどは全然わからないんです。ただ、がんばったらがんばっただけ、みなさんに喜んでいただけたのでやり甲斐があり、いつも楽しい日々を送っていました。これから先も『夢持ち続け日々精進』の言葉を大事に、あと40年、117歳まで情熱をもって生きていきたいと思っています(笑)」
(取材・文=中野裕子)
提供元:Yahooニュース