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「シェイプ・オブ・ウォーター」が描く抑圧と解放 モンスターの一撃は何を救済したか?(ねとらぼ)


 劇場公開から2週間。US版Blu-rayが到着し、「シェイプ・オブ・ウォーター」米国公開版を見ることができた。本作は監督協会賞、金獅子賞のみならず第90回アカデミー賞監督賞、作品賞含む4部門を受賞した彼の現時点でのマスターピースであり、疑いの余地もない傑作だ。

【画像】ギレルモ・デル・トロ監督

 以下、公開から時間が空いた話題作ということもあり、内容には多量にネタバレを含む。また、本記事の大半は作品を見たうえでないと理解できない内容になっていることをあらかじめご了承いただきたい。



【全面に押し出された"抑圧への反対"】


 「刀を鳥に加へて鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。聲ある者は幸福也」……といえば、映画「イノセンス」に引用された斎藤緑雨の「半文銭」だ。声をあげられない魚を模した怪物に、唖者であるイライザ(サリー・ホーキンス)は自分と同じものを見る。


 時代は冷戦期。それはデル・トロが語るように、アメリカが再び偉大な大国となるよう動き始め、生活は豊かになり、夢と希望にあふれた時代――アングロ・サクソン系プロテスタント男性にとっては――でありながら、同時に古い時代の規範がいまだ根強く存在し、それに縛られている者たちの苦しみは続いている。


 その混沌の時勢の中、声をあげられない者たちは抑圧され、虐げられる。例えばそれはイライザ同様の唖者であり、南米からの移民を象徴するモンスター。ゼルダのような黒人たち。さらにはジャイルズに象徴される同性愛者、といった人々である。


 本作にはこれまでデル・トロが描いてきたファンタジーの絶対肯定のほか、受賞スピーチ最初の一声を「私は移民です」とした彼の考える、はっきりとした抑圧への反対論、さらには相互理解の重要性が見てとれる。


 確かにメインプロットは異境から現れた怪物であるモンスターとイライザのラブストーリーだ。だが本作は「美女と野獣」、ならびに「大アマゾンの半魚人」のラストシーンに端を発する。真実の愛を知った野獣は美しい王子に姿を変え、半魚人はヒロインと結ばれることなく死んでしまう(※)。つまり、物語の中ですら“社会ののけもの”は幸せになれないのか、という少年期のデル・トロの疑問が、本作を撮るきっかけとなっているのだ。

(※「大アマゾンの半魚人」で半魚人(ギルマン)は銃撃を受けはしたものの厳密には死んでおらず、続編「半魚人の逆襲」に再登場、水族館の見せ物とされる。そして第三作、「THE CREATURE WALKS AMONG US(日本未発売)」にて大火傷を負い、肺を切り取られて歪な人間化を果たす。そしてもはや水中呼吸ができない体になったにもかかわらず、海へと帰っていく)


 その象徴として映し出されるのが、作中幾度か現れる劇場のスクリーン、そこに流される映画「砂漠の女王」のある場面だ。これは王により建設されている邪神・ケモシュの神像がぐらつき、奴隷であるクリスチャンたちがその下敷きになるシーンの直前だ。


・・・・・

 イライザが劇場に入る。闇。「砂漠の女王」が無人の劇場にかかっている。

 スクリーン:異教の神の石像が大きくぐらつく。クリスチャンの奴隷たちがつぶされ、叫んでいる。

 彼女は座席を見渡す。客は誰一人いない。

(脚本より)

・・・・・


 該当シーンの使用は脚本にも明確に記載されている。ここで提示されているのは、誤った社会規範の抑圧により苦しめられる民衆の姿だ。そしてこの苦しみはイライザとモンスター、ジャイルズ、ゼルダ、そして後述するように――ストリックランドにも通じている。



【「正しく」矯正されたシーン】


 以前の記事で書いた通り、本作の日本での劇場公開版はあるシーンに数秒間のぼかし処理が為されている。その箇所はマイケル・シャノン演じるストリックランドと、その妻のベッドシーンだ。モンスター、およびイライザのシーンには一切の修正がない。ということで、「ただのセックスなら仕方ない、大したシーンじゃない」と感じている人が大半だろう。だが、これは誤りだ。残念ながら。


 水の漏る浴室で行われる、サニーとモンスターの互いを愛おしむような愛交。その対局に置かれているのが、眩いばかりの明かりに包まれた家に住む、彼の内面を象徴する――まさに“絵に描いたような幸せな家庭”をもつ彼の――身を焼くほどの正しさへの狂信のもと行われるセックスだ。脚本では、該当シーンが以下のように描写されている。


・・・・・

 ストリックランドはエレーンにのしかかった。リズミカルに、機械的に。アスリートが競技にそなえるトレーニングのように。その顔には何の感情も込められていない。

 彼は妻の首に触れ、体のラインを撫でた。

 「リチャード」彼は妻の口をおおった。動き続けながら。彼女は話そうとしている。

 「シー、静かに。何も言うな。静かにして」

 「あなた、手から血が」

 「静かに」

 彼はその激しさを無理やりに押し付け、彼女をさえぎった。ピストン・ポンプのようにイン・アウトを繰り返す。

 彼女は困惑し、彼の手のひらを押し、見つめた。彼はその顔を押しのけ、更に激しく動き始めた。

(脚本より)

・・・・・


 編集対象は性器だけではない。ストリックランドの腰の動きすべてだ。劇場に足を運び、巨大で雑なモザイクに眉を顰めた方も多いだろう。それは俳優の下半身の動きを覆い隠すためだ。


 確かにモザイクがなくとも、あの行為が幸せに満ちたものではないこと自体は伝わるだろう。だが、作り手はそれをさらに緻密に描写している――ストリックランドは性交によって快楽を得ることを拒絶している、と。


 なぜ脚本でこのような描写がされているかといえば、理由は1つ。ストリックランドが敬虔なクリスチャンである、またはそうあろうとしていることの提示だ。この後、彼は「われわれは神の似姿」と述べるなど、たびたび聖書を引用するようになる。


 アメリカで性の解放運動が始まったのは本作の時代より少し後、1960年代後半だ。性交によって快楽を得ることは“正しくない”と認識しているからこそ、彼のセックスは正常位によって、言葉も愛もなく行われる。その長らく自らを押し込め続けたことによるフラストレーションは、物語が後半にいくにつれ増していく彼の暴力性として、イライザに、そしてモンスターに向けられる。


 つまりこの場面は、のちに「いつまで自分がまともであることを証明し続ければよいのか」と問う彼もまた、社会規範に封じられている存在であるという点が描かれている最初のシーンだ。


 彼にとっては社会の決める正しさこそが全てだ。ゆえに職場では職場の正しさに従い、時代にとっての成功の証であるキャデラックを乗り回す。正しい家庭を持ち、正しいセックスをする。過度な男性性のアピールも、自分が正しいことを証明する方法の1つだ。このような”正しさの抑圧”は、デル・トロ自身が敬虔なカトリック教徒である祖母から受けていたことでもある。


・・・・・

 「私はどのようにするのが正しいか――いかに着飾るべきか、どういう行儀が正しいか、すばらしさとは何かを、そして想像力がいかに無力なのかを叩き込まれる家庭で育った」

 「祖母に“悪魔払い”を受けたよ。二回も」

 「今は笑えるけど、昔は笑えなかった。彼女は本気でガラス瓶の中の聖水が私から――私の描くモンスターと物語を祓(はら)ってくれると信じていた」

"Guillermo del Toro on the deeper meaning in ‘The Shape of Water’"(The National)

・・・・・


 彼とデル・トロの異なる点は、唯一絶対の正しさに縋るか、多様性を受け入れるか否かだ。前者であるストリックランドはモンスターの存在を許すことができない。


 本作においてはキリスト教的モチーフが各所に見られる。それらはストリックランドに対する抑圧にほかならない。ノベライズ版では姦通の罪を犯したとうたがったその妻を自ら殺してしまうほどに常に正しさという強迫観念に脅されている彼の恐怖、それを最も象徴しているのがこの痛ましいセックスシーンだ。


 そこに余計な疑念を生み、ましてや脚本で書かれた俳優の動きを不可視化するモザイクを挟み込むのは、あらためていかがなものかと言わざるを得ない。ましてや今年度最も優れたアート作品と評された本作の一部を、“ありのままを愛することの素晴らしさ”という理念に真っ向から反する、社会的な正しさをもって矯正するような編集であればなおのことだという点については、今一度触れておきたい。



【イライザ、モンスター、ストリックランド】


 本作のラストシーン。ストリックランドの凶弾に倒れたイライザはモンスターと共に水中へ消える。そして彼の力で喉の傷跡を”えら”へと変化させ、二人は結ばれることになる。一見非常に美しいシーンだ。が、どうもそのままでは飲み込みづらいところがある。


 まず彼の能力は「ものの性質を変化させる」ことではない。それはジャイルズの頭髪、傷跡を完治させたことから明らかなように「治癒」だ。自らに発揮する再生能力同様、つまり傷ついたもの、失われたものを元ある状態に戻すことができるのが彼の能力だと作中では描写されている。


 さて、イライザが声を出せないのはその傷のためだとされる(※)。彼女は川に捨てられていた遺児であり、その時点から喉は裂かれていた……と作中では語られている。またオープニングに彼女が見るのは美しい水の夢だ。

(※公式サイトおよびいくつかの紙、ネット上を問わない記事では、イライザが発話できない理由は「子どもの頃のトラウマ」が原因だと書かれている。これはおそらく、本作のプロダクション・ノートに記載された"Rendered mute by a childhood trauma"=「小児期の外傷」の誤訳だ。完成した映画、脚本、ノベライズ、ヴィジュアルガイド、デル・トロのインタビュー、どこを探しても精神的意味での「トラウマ」の描写はない)


 ここで1つの仮説が持ち上がる。彼女のそれは“もともと”えらである。使われず、錆びついていただけのそれをモンスターはもとに戻したにすぎない。つまり彼女はもともと魚人をその由来に持つ者なのではないか、ということだ。


 主演のサリー・ホーキンスは本作のオファーを受けた際、自らのショートフィルム作品として「自分が人魚だと気づいていない女性の物語」を執筆していた。既にダニエル・クラウス(※)との会話で「シェイプ・オブ・ウォーター」のアイデアを思い付いていたデル・トロは彼女にそれを送ってほしいと頼み、以後彼女とのやりとりからイライザというキャラクターが出来上がっていった。

(※本作の共同脚本家であり、NETFLIXオリジナルアニメ「トロール・ハンターズ」原作者。デル・トロも製作として参加し、数話を監督。また、同作の悪役の名はストリックラーである)


 その後イライザの詳細な設定について尋ねたサリーに、デル・トロは「君はもうイライザそのものだ。僕がわざわざしたためて、送る必要はないね」と伝えている。恐らくはここで、彼と彼女の設定が入り交じった。そして作中では、彼女が実際に“そう”なのかは明言されない。


 デル・トロは物語に解釈の余地を残し、2つのことを同時に書いている。さながら、「砂漠の女王」を引用することで偽りの正しさに抑圧される人々の悲哀を描きながら、同時に奴隷たちをつぶすケモシュの像が「魚類を想起させる、瞳の飛び出た神」であることから――ストリックランドの末路を暗示させたように。


 本作のノベライズでは、妻の殺害、また肩に乗る猿の幻覚、といったようにストリックランドのパラノイアにかなりの焦点を当てている。その彼は死の間際、撃たれたのち立ち上がったモンスターを「神」と認める。


 その復活劇はストリックランドにとってキリストの復活、モンスターによる一撃は彼にとっての救済であり、その内心はノベライズ版にこう書かれている。彼は決して、時代遅れの存在として排除されたわけではないのだ。


・・・・・

「――あなたが神だ。私ではなく」

ストリックランドはささやくように告げた。「申し訳ない」

(略)

これまで己を縛り付けてきた全てがあふれ出て、自分は空っぽになるのだろう。金切り声を上げるサルたち、ホイト元帥、レイニー、子供たち、自分の罪。残ったものが、本当のリチャード・ストリックランドだ。

(略)

いや、倒れたのではない。ギル神が導いてくれているのだ。毛布のように柔らかく、温かい水の中へ。こんなふうに穏やかで幸福だったのは、いつ以来だろう。彼の眼窩は水であふれ、彼が見えるのは、水だけになった。これが最期か。だが、死にゆくストリックランドは笑っていた。なぜなら、これは始まりでもあったからだ。

(ノベライズより)

・・・・・



【そして混沌の時代へ】


 イライザがモンスターと結ばれたのは、本来の自分を相手にさらけ出し、彼の全て(人外の形状の性器。ならびに猫をあやめ、食べることでさえ)を受け入れたからである。それは服を着たままのセックスを行っていたストリックランドと対照的に描かれる。


 自らの全てを捨て、他者である彼を恐れずに歩み寄り、ありのままを見ることができたからこそ、彼女はこの物語のヒロインたり得ている。また氾濫した桟橋、ゼルダとジャイルズがつなぐ手にも暗示されているように、混沌の時代に必要なのは相互理解である。


 本作の舞台は1962年。この後、アメリカは前述の性の開放運動、ヒッピームーブメントに象徴されるカウンターカルチャーの嵐が吹き荒れる。声なき者たちが立ち上がり、誤った時代に反抗をおこしはじめるその姿は、さながらハリウッドをはじめとする今の世界情勢を見ているようだ。


 デル・トロは過去作「パシフィック・リム」において、地球の危機に各国が手を取り、協力しながら立ち向かう物語を描いた。これは「国と国とが争い合ってる場合じゃない。手を取り合って協調し、ともに世界を良くしていこう」というメッセージであり、作中のシンクロシステム・"ドリフト"もまた人と人とが互いを分かり合うことの象徴である。一方は怪獣ロボット・アクション、他方はラブロマンスという形をとっているが、本作とは芯のところでテーマが密接につながっている。


 「われわれの事業の最も素晴らしいポイントは、砂上に引かれた国境線を消し去れることだ。われわれはそれを続けなければならない――世界が、その溝を深めようとするときにこそ」。アカデミー賞のスピーチで、彼はこう語った。そして世界と世界、個人と個人をつなげるものについては、次のように語っている。


・・・・・

 「私にとって――この映画にとって大切なものは“水”と“愛”だ。何よりもまず、水だ。それは破壊されることなく、決まった形を持たない。愛もまた同じだ。愛がどのような形をしているにせよ、みなそれに落ちる。私はそう信じる。」

"Guillermo del Toro on the deeper meaning in ‘The Shape of Water’"(The National)

・・・・・


(将来の終わり)


【編集部注:ねとらぼ編集部では本作がR-15編集を行って公開するに至った、またSNSでその告知を行うことに至った経緯について、配給元のFOXサーチライト・ピクチャーズに取材を申し込みましたが、「公式で出しているコメント以外にお伝えすることはありません」との回答でした】

提供元:Yahooニュース
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