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アントニオ猪木は生涯200億円稼ぐも借金に追われていた こんなトリックスターはもう現れない(元木昌彦)(日刊ゲンダイDIGITAL)

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【週刊誌からみた「ニッポンの後退」】
戦後史に残るトリックスターだったアントニオ猪木が亡くなった。享年79。
アントニオ猪木さんは最期にサプライズで「ガリガリ君 ソーダ味」を…赤城乳業「とても光栄」
力道山にスカウトされた猪木は、力道山亡き後のプロレス界を、ジャイアント馬場とともに牽引し、「燃える闘魂」と呼ばれ、ファンを熱狂させた。
猪木の名前を世界中に知らしめたのは、1976年6月26日に行われた、ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの異種格闘技戦だった。だが、リングにあおむけになった猪木の周りをアリが回るだけの45分間は、「世紀の大凡戦」と酷評された。
週刊文春(10月13日号)は、当時のアリの肉声テープを入手したと報じている。そこでアリは「八百長など仕組まれた試合はしない」と言っている。したがって、この試合は「究極のガチンコ勝負」だったとみているが、元プロレス誌編集長・井上譲二の「闘魂最終章」(双葉社)によれば、3カ月後に大事な試合を控えていたアリが本気でやるはずはなく、約18億円といわれるファイトマネーが欲しかっただけだとニベもない。
有名にはなったが大借金を抱えた。だが、猪木の信条は「他人から借りたカネも俺のカネ」。週刊文春が計算したところ、生涯に稼いだカネは200億円にもなるというが、昼飯に500万円、夕飯に1000万円という乱費癖もあり、晩年は借り入れた1500万円が払えず、債権者に株式を差し押さえられるほど困窮していたそうだ。
1998年に55歳でレスラーを引退するが、89年にはスポーツ平和党を立ち上げ、約99万票を獲得して参議院議員になっている。翌年、イラクのクウェート侵攻で邦人41人がイラク国内で人質になった際は、トルコ航空機をチャーターし、人質の家族を連れてイラクを訪れ、プロレス興行を開催。人質が解放されるという“快挙”を成し遂げてもいる。北朝鮮に何度も足を運んだ。拉致被害者救出を掲げていたが、その裏では、財界人に「レアメタルの権利を取ってくるから、金を出してほしい」と持ち掛けていたといわれる。
1991年2月、突然、東京都知事選出馬を表明したが、あっという間に撤回。私が編集長だったフライデー(1991年3月29日号)で、「都民をバカにするのもいいかげんにしろ」と批判した。当時から「カネで転んだ」といわれていたが、週刊文春によれば、断念する代わりに、佐川急便社長から融資してもらっていた約17億円をチャラにしてもらったという。
ビンタ1発100万円。「1・2・3・ダァーッ」も商標登録した。借金まみれの人生だったが、「話題になるため」だったら何でもやった。
アリ戦はもちろんだが、先の井上の本の中で、1983年にハルク・ホーガンにKO負けしたときの有名な「舌出し失神」は、自作自演だったと書いてある。担ぎ込まれた病院から夜中に抜け出したが、芸能マスコミが嗅ぎ回っているのを知り、慌てて病院へ舞い戻ったという。同じ本の中で、当時、結婚していた倍賞美津子がこう語っていたという。
「テレビより鏡を見ている時間のほうが多いですよ。まるで役者さんみたいね」
強いだけでは一番にはなれない。客をハラハラさせる演技力も必要だということを知っていたのだろう。
多くの女性と暮らした。フライデーが猪木と20代の女性が会っている写真を掲載したこともあって、倍賞とは離婚してしまったが、ずっと好きだったようだ。難病の「心アミロイドーシス」が最後の“死闘”相手だったが、無念にもKO負けしてしまった。 (文中敬称略)
(「週刊現代」「フライデー」元編集長・元木昌彦)
提供元:Yahooニュース

