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学園祭の女王だったSHIHOさん スキンヘッドヌードのきっかけは妹の白血病(日刊ゲンダイDIGITAL)

【あの人は今こうしている】
SHIHOさん(51歳)
80年代末から90年代半ばまでディスコクイーン、学園祭の女王として君臨。スキンヘッドヌード、臨月写真集のリリースでも大きな話題を呼んだ、歌手のSHIHOさん。だが姿を見なくなって久しい。今、どうしているのか?
◇ ◇ ◇
「昨年10月27日にマハラジャ仙台で開催された『ハロウィンナイト』で約6年ぶりにステージに立ち、翌28日にはマハラジャ六本木でのアルバム『No.1 DISCO』(ビクタエンターテインメント)の発売記念イベントに出演して本格的に復帰しました。やっぱり歌って踊るのが私にとっては一番です」
会ったのは都内の貸しスタジオ。黒いスパンコールの衣装にゴールドアッシュのショートへアで、とてもアラフィフには見えない。
このアルバムには「SEPTEMBER」「THE HUSTLE」など、誰もが知るメガヒット曲とともにSHIHOさんのデビュー曲「GYPSY QUEEN」(88年)も収録してある。
「6年間も歌わなかったのは、シークレットライブの出演があまりに増えたため控え気味にしたところ、ストレスなどで脂質異常症を発症し、さらに糖尿病にも追い打ちをかけられて、体重が43キロから一時76キロに。それで引きこもったからです」
そんな時のイベントのオファー。目標ができると負けん気に火がついた。体質改善、ダイエットに取り組み、2カ月半で体重を17キロ落とし、50キロほどに絞り込んだ。
「おかげさまで、仙台も六本木も大好評。そこから、横浜、前橋、札幌、那覇とほぼ毎月、ディスコイベントにゲスト出演しています」
那覇では元アイドルユニット「Pimm’s(ピムス)」メンバーで一人娘の、ららさん(21)とジョイント。豊かな声量と歌唱力は、まさに母親譲りだ。
■話題を呼んだスキンヘッドヌードの裏で……
さて、宮崎県延岡市生まれのSHIHOさんは、3姉妹の長女。中学2年で両親が離婚し、父と姉妹の4人暮らしが始まった。だが、18歳の時に父が喉頭がんで死去。姉妹は宮崎市内の叔母宅に身を寄せた。
上京はその2カ月後、87年3月。昼はOL、夜はクラブホステスで生活費を稼ぐ下積みを経た88年11月、ディスコ曲「GYPSY――」でデビューした。しかしブレークまで2年もかかった。
「きっかけは、原宿の歩行者天国で行ったゲリラライブ。当時、ランジェリー姿で歌うマドンナが話題を集めていたのですが、日本ではせいぜいミニスカート。それでスパンコールを縫い付けたショーツにブラジャーだけの衣装にしました。そしたら、踊ってるうちにショーツがお尻に食い込んでTバックになってしまい、翌朝のスポーツ新聞各紙の見出しが『Tバックの女王』。それで一気に火がついたんです」
特に大学生や20代に大人気。ディスコや学園祭に引っ張りだこになった。
「名古屋で1晩7カ所、1カ月に合計103カ所で歌ったことも。睡眠は移動中だけ1日2時間、なんてザラでした」
一方で週刊誌のグラビアを賑わせ、リリースした写真集はどれも万単位で売れに売れた。さらに話題になったのが94年のスキンヘッドヌードだ。
「当時、18歳だった末の妹が白血病を患い、薬の副作用で髪の毛が抜けて。そのつらさを共有したんです。残念ですが、妹は21歳で亡くなりました」
だが、ディスコブームの陰りとともにステージは減り、知り合ったカラオケ店の店長と97年に結婚して活動休止。翌98年、30歳で出産したのが一人娘の、ららさんだ。
「でも育児が一段落したらステージに戻りたくなり、結局、離婚。シングルマザーの道を選びました」
その後、歌手を続けながらクラブホステスなどで生活。まさに波瀾万丈の人生だ。
「来月10日にマハラジャ六本木、19日にはマハラジャ仙台で、それぞれ内容を変えて元『光GENJI』の大沢樹生と限定ライブをやります。11月はデビュー記念ライブに加え、マハラジャ六本木、横浜のGroovyのほか、全国のディスコでもライブを予定しています。詳細はSNSをご覧ください」
独身。都内で一人暮らしだ。
(取材・文=高鍬真之)
提供元:Yahooニュース