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佐藤健ストイシズムの本質は「ヒーロー否定」にある(dmenu映画)

佐藤健。とりわけ近年の彼の演技に接していて想うことがある。「このストイシズムはいったいなんだろう?」と。
【写真】小松菜奈演じる雪姫の横顔
それは、往年の高倉健が得意としたような、日本人の大好きな「耐える美学」を感じさせる「ストイックな役どころ」が続いている、ということではない。
あるいは、映画・ドラマに限らず、主演にこだわらず、準主役であっても、助演であっても、作品内におけるポジショニングに固執せず、のびのびとオファーを受諾している「ストイックな姿勢」、ということについて述べたいわけでもない。
そうではなく、「芝居そのものがストイック」なのである。
もともと、そうした資質はあったが、とりわけ『るろうに剣心』シリーズ(2012年、2014年)以降の佐藤健は、「演じる」という行為が急速にストイシズムに向かっている。
2月22日より公開する最新主演作『サムライマラソン』を観て得た、わたしなりの現時点での感触を言葉にすれば、次のようになる。「わたしはヒーローではない」。
現在の佐藤健の演技フォームから感じられる、決然とした意志(意識)表明は、つまりそういうことだと思う。
『何者』(2016年)、『億男』(2018年)に顕著ではあるが、佐藤健の最近のアプローチは、たとえそれが主人公であっても、わかりやすく作品の中心部に存在しているわけではない、という点が重要である。
『何者』における能面のような表情。『億男』での狂言回し、あるいはホスト(相手の話の聞き役)と言っていい消極的な存在感。
無論、その芝居をつぶさに覗き込めば、彼がいかに繊細にして深く、さらに言えば難解かつ強度のある「アクション」(心理、身体両方の意味で)をものにしているかは理解できるのだが、物語のみを追いかけるような観客(これが案外、多い)にとっては、率直に「主役にしては地味だよな。佐藤健、イケメンなのにな」といったところではないだろうか。
佐藤健は、演技という「アクション」において、何かを目立たせようとはしない。たとえば『いぬやしき』(2018年)の助演(ここも重要な点だ)での、指先を中心とした所作の美しさには、もちろん吸引される。だが、それはあくまでも画面に対する貢献であり、木梨憲武扮する主人公との対比であり、来るべき対決場面を活気づけるツールの一つにすぎない。俳優・佐藤健が「得をする」ための表現ではまったくないのである。
さらに、『世界から猫が消えたなら』(2016年)では、一人二役を成功させたが、その演じ分けがあまりにも自然で、作品のすがたかたちに実にしっくりフィットしていたので、佐藤健自身の芝居が、わかりやすく「鮮やか」に映ることはなかった。
こうしたストイシズムは、ほとんど「裏方」と呼んでいいものであり、本来であれば、個性的なバイプレイヤーの仕事に宿る性質のものである。
とはいえ、「スター、佐藤健」に極端に抗って、演技派への道に邁進中、といった汗臭さは微塵も感じられない。新境地開拓やら、路線変更やらは、ストイシズムから最も遠く離れた貪欲な行為である。佐藤健には、この「欲」がない。
提供元:Yahooニュース