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飯野矢住代の告白「私にはジョニーが必要なの。ジョニーにも私が必要だと思うの」【芸能界と格闘技界 その深淵】(日刊ゲンダイDIGITAL)

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【芸能界と格闘技界 その深淵】#47
飯野矢住代誕生秘話(10)
◇ ◇ ◇
ジョニー吉長。本名・吉長信喜。1949年、福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)にドイツ系アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれる。父親が朝鮮戦争で戦死し母子家庭となるが、13歳のとき母親が出奔。天涯孤独となる。後年、ミュージシャンとして大成し、“日本のジャニス”と呼ばれる女性歌手と結婚。俳優、ベーシストとして活躍する2人の息子をもうけるなど、比較的恵まれながら63年の生涯を閉じたジョニー吉長にとって、つらく、苦しい少年時代を過ごしたことだろう。
飯野矢住代誕生秘話<4>母親の要求に山口洋子は「わかりました。ウチも倍の金額を支払います」
15歳で養護施設を逃げ出すと、日雇い、バーテン、美容師修業と職を転々とし、16歳のときに流れ着いた神戸で、ブルースバンドのボーヤ(付き人)となる。ここから音楽の世界に足を踏み入れた。
上京したのは68年、ジョー山中と出会いバンド「カニバルス」を結成しドラムスを担当する。世のバンドマンらしく貧しい生活を送るも、程なくしてミス・ユニバース日本代表の人気モデルの飯野矢住代と出会っている。「誰か私と焼き肉を食べに行かない?」という矢住代の呼び掛けに「俺、行きたいな」と応じたのがジョニー吉長だったことはすでに触れた。初対面の2人が互いの身の上を話したことは想像に難くない。
《幼いころ、父と離別した矢住代は、ふたりの境遇があまりに似ているのにビックリした。ふたりの心は、いつかかよいあっていた》(「週刊平凡」1970年1月15日号)
とはいえ、このとき矢住代には大学生の恋人がいた。そこで矢住代は、大学生の前でこう宣言する。
「私にはジョニーが必要なの。ジョニーにも私が必要だと思うの」
かくして、大学生と別れて飯野矢住代は、「ジョニー」こと吉長信喜と付き合い始めた。それだけではない。原宿のマンションで一緒に暮らすようになったのだ。
飯野矢住代の“新恋人”は、マスコミの格好のネタとなった。記者は「姫」の前で待ち構えて、勤務を終えた矢住代をつかまえて取材をすることもあった。普通の女性なら「今はプライベートです」とか「ご想像にお任せします」などとけむに巻くところだが、矢住代はあけすけになんでも話した。ミス・ユニバース日本代表に選ばれた際の「二号発言」もそうだが、注目されるのが何より快感だったのかもしれない。事実、雑誌のインタビューで次のように明かしている。
「けっきょく、ザイモクヤさんなのね、アタシって。(略)キが多すぎるのよ。好きな人がいるのに、ほかの人を好きになったりしたときは、自分が悲しくなって泣けてきちゃうの涙で正当化しようとするのかな。(略)人はわたしのことを、乱交でもやってるようにいうけど、これはわかってほしいわ、わたしは、どっちかといえば古いタイプの女だと思う。だから、今までしてきたおつきあいも、真剣なものばかりだったつもりよ」(「平凡パンチ」1969年4月7日号)
連日連夜、銀座の路上で行われる、飯野矢住代の即席記者会見を、マダムの山口洋子はどういう思いで眺めていたのだろう。=つづく
(細田昌志/ノンフィクション作家)
提供元:Yahooニュース

