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「日本刀で斬られそうに…」「ガラス製の灰皿が飛んでくることも」息子が語る《昭和の名優・若山富三郎》の素顔(現代ビジネス)

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「初めて父と言葉を交わしたのは16歳の頃だったと思います。当時、日活の映画監督だった松尾昭典さんに連れられて、代々木にあった親父の自宅マンションへと向かいました。
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部屋に入るなり松尾さんは父に『坊ちゃんはこれだけ大きくなりました』と話かけて涙を浮かべていました。親父が『息子を会わしてくれた恩は忘れないからな』と返事をしていたのは覚えてます」
俳優の若山騎一郎(59)は、父であり昭和の名優・若山富三郎との対面をそう振り返る。(以下、「」は騎一郎)
長唄三味線の杵屋勝東治氏を父に持つ富三郎と宝塚歌劇団男組トップとして活躍した藤原礼子が結婚したのは1963年のこと。翌年、若山家の長男として生まれたのが騎一郎だった。しかし、1965年に2人は離婚。その後、騎一郎は母である藤原の元で育てられた。「物心ついた頃から、母から『父親は亡くなっている』と聞かされていました。それでも家に仏壇はないし、母親は叔父である勝新太郎さんのことは『勝っちゃんは良い人よ』と嬉しそうに話していて、子供ながらにおかしいとは思っていました。親父はすでに映画やドラマに引っ張りダコだったので、顔は覚えているわけです。
一方、自宅にあるアルバムには赤子の私を抱く男の写真が残っていて、どう見ても若山富三郎。母親に言っても『あらま、そっくりだわね』と煙に巻くだけ。当時はネットもないから確信は持てませんでしたが、10代にもなれば自分の父親が若山富三郎だっていうのは薄々気付いていました」
そして16歳の時、ようやく親子としての再会を果たす。その後は父の新年会などに呼ばれる日々が続いた。次第に騎一郎は父と同様に俳優の世界を志し、千葉真一主宰のJACへと入所。劇団昴を経て、20歳の時に富三郎の内弟子となった。しかし、そこで待っていたのは芝居の鬼と化した父との壮絶な日々だった。「当時、若山企画(富三郎の個人事務所)で熱海に旅行へ行ったんです。旅館を貸し切っての新年会を開いたんですが、親父が『おい、みんな聞いてくれ。あの末席に座ってるのが俺の息子だ。あいつは今日からうちの事務所に入るぞ。俺は息子ではなく、一番下の弟子として扱うからな』と宣言。そこから地獄の日々が始まりました」
当時はまだ世間のコンプライアンス意識は低く、時には暴力を交えたスパルタ指導が当たり前。それは俳優界も例外ではない。
「父は他の弟子にはよほどじゃないと手は出さなかった。その代わり息子の私には遠慮はありませんでした。舞台での間が合わなかったりすると、弟子には『ダメだぞ。分かったか』と3回注意をして、それでも繰り返したら怒鳴りつける。でも私の場合は1回で張り手が飛んできました。親子だからこそ厳しかったと思います。
おまけに親父は口で演技を教えることはなく、とにかく『目で盗め』というのが信条。当然、入ったばかりの若造に親父の意図が分かるわけもなく、とにかく芝居のことで怒鳴られる毎日。ひどい時にはガラス製の灰皿が飛んできたこともあります。父は手裏剣の名手なので、灰皿もわざと当たらないように投げるのが常。反対に避けようとして横に逃げると当たってしまうので、絶対に動かないようにしていました」
そこまで富三郎が弟子に厳しく当たった理由を騎一郎は後になって知ることになる。
提供元:Yahooニュース