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加橋かつみさんが憧れたストーンズ「サティスファクション」はザ・タイガースの原点でもある【人生を変えた一曲】(日刊ゲンダイDIGITAL)

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【私の人生を変えた一曲】#77
加橋かつみさん
(ミュージシャン・元ザ・タイガース/76歳)
【写真】ザ・タイガースの“ピー”こと瞳みのるさん 35歳下の中国人女性と結婚、4歳児のイクメンパパはバンド活動で大忙し
◇ ◇ ◇
かつて一世を風靡したグループサウンズ。その先頭を走ったのはザ・タイガースだった。ボーカルの沢田研二はソロになって活躍しているが、最初にグループをやめたボーカル&ギターの加橋かつみさんも旺盛に音楽・ライブ活動を続けている。日本の音楽シーンの中でもきらめく存在だったザ・タイガースの原点について加橋さんが語る。
■ビートルズが世界のカルチャーを一遍に変えた驚き
高校時代は60年安保の時代でね、仲間と学生運動をやっていました。学生運動をやってる友だちはみんな理屈っぽいからね、正直、僕は飽き飽きしていた。国家権力が強いから、デモをやっても簡単に抑え込まれるだけだとわかっていたし、そんな時にはやり出したのがベンチャーズです。
それを見て、見よう見まねで4人(加橋さん、瞳みのる、森本太郎、岸部修三)で始めたのがアマチュアバンドです。そうしているうちに1966年にビートルズがやってきます。京都から武道館まで見に行きました。びっくりしましたね。ものすごいショックを受けた。ウワー、こんなものがあるんだと思いました。
それを見たら、もう学生運動なんかやってる場合じゃないと思いましたね。暗い学生運動が世の中を変えることなんてできっこない。学生運動なんかやっている間にビートルズが出てきて、世界中のいろんなカルチャーを一遍に変えちゃったわけだから。
それは現在に例えていえば、インターネットが出てきて世の中が変わったのよりも印象が強かった。歌っているのは英語の歌詞。そこには歌詞なんかわからなくてもビンビン伝わってくるものがあった。それは本当に驚きでした。
最初はギターを持っていないから、友だちがやっていたバンドの楽器を借りました。バンドのパートはじゃんけんで決めた。僕が勝ったからギターとかね。楽しかったのはダンパ、当時はやっていたダンスパーティーのこと。バンド演奏するからというので、ダンパのチケットを売って小遣いにするんです。やっていてこんなに楽しいことがあるのかと思いました。京都にあった「田園」というダンスホールとかでね。その時は沢田(研二)はまだ入っていません。
その後、僕らのスポンサーみたいな人も現れました。坂東流のお師匠さんと呉服問屋の若旦那です。若旦那は僕らと遊ぶのがうれしくて仕方がなかったみたいで、祇園で今のお金でいえば、一晩で100万円、200万円くらい使ってたのかな。
押しかけマネジャーもいました。僕がミルクって、あだ名をつけました。彼がマネジャーになって京都会館で開かれたのが「全関西エレキバンド・コンテスト」(66年)。要するに、アマチュアバンドのコンテストです。20組近く参加したのかな。僕らはバンドを始めてまだ半年もたっていないから、一番下手っぴだったと思います。その時に、半年だけ楽器を触ったくらいじゃ演奏しても持たないし、ベンチャーズみたいにギターとかの音だけじゃつまらないというので、引っ張ってきて入れたのが沢田です。
そのコンテストで僕らがやったのはザ・ローリング・ストーンズの「サティスファクション」です。ラジオで先に聴いたのはビートルズで、ストーンズはその後だったと思う。ビートルズはレベルが高すぎて、そのよさがわかってきたのは後からのこと。それに比べてストーンズはわかりやすかったからね。
ダッダン、ダダダーンという「サティスファクション」のイントロなんて、僕らが最初に聴いたエフェクターの音だったと思う。割れるようなファズトーンの。今はオーバードライブというのかな。あんな音を聴いたのは初めてだった。かっこいいなと憧れました。
■「サティスファクション」はものすごく簡単
ただ、楽器を触ってまだ半年もたっていないわけだから、まさかコンテストで優勝するとは思ってもいなかった。出たのはアマチュアとはいっても、うまい人ばかりだったから、僕らが優勝って言われて、えっ? でしたね。インパクト、印象が強かったとか言われたりしたけど。後から聞いたら、押しかけマネジャーのミルクがコンテストの合間に楽屋裏に審査員を呼び出していたというんです(笑)。何かなければ、うまい人が集まっている大会に出て、僕らが優勝するわけないですよね。
演奏してみると「サティスファクション」はものすごく簡単。あの時代のロックシーンの中でも簡単な方だったと思います。ストーンズはメジャーのスリーコード系ですからね。基本はブルースバンドです。でも、それが画期的だった。ただ、雰囲気がないとかっこよくないというのはあるけど。それに比べると、ビートルズはものすごく複雑なコードを使っていました。
いずれにしてもストーンズもビートルズが出てきて、世界が新しくなった。ファッション的にもカルチャー的にも音楽的にもかっこよくて。ワクワクドキドキしましたね。
ストーンズの中で一番好きだったのはブライアン・ジョーンズです。早くに死んじゃいましたけどね(69年)。ストーンズのコンサートはショーアップするようになり、エンターテインメントしていきます。でも、ブライアンは客に媚びないというか、自然のまんま、ニコリともしなかった。それがよかった。
■タイガースは5人の足し算じゃなく掛け算だった
ストーンズを生では見たことはないです。人気が出てだいぶたってからですが、NHKでライブのフィルムを見せてもらったことがあります。映像として見たのはそれが初めて。その時にブライアンはかっこいいなと思いました。このバンドは普通じゃないな、とも。
もっとも、ブライアンがいなくなったら、急にストーンズに興味がなくなっちゃってね。
その後、衝撃を受けたのはロンドンで見たジミ・ヘンドリックス。あれはすごかった。ビックリして腰が抜けそうになりました。
──タイガースの結成は67年、「僕のマリー」でデビューした。ボーカルとして歌った「花の首飾り」や「君だけに愛を」などが次々にヒット。加橋さんは69年に脱退、グループは71年に解散した(その後、2回再結成)。
いろんなことがありましたが、音楽から学んだことがあります。
タイガースの活動はアマチュア時代から数えるとたった4年ぐらいです。後から沢田を入れて5人になった。その時、第六感というのかな、頭の中でチカッと光るものがあった。このグループは何をやっても他には勝てる……。それが証拠に楽器を持ってトップになるのに1年くらいしかかかっていない。当時はザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルージーンズといった人気グループがいたけど、彼らの間をすり抜けていきましたからね。
普通は5人いたら、5人の足し算です。ところが、タイガースは掛け算だった。掛け算してまるで核分裂みたいに破裂していく。個性がまったく異なり、一つの方向性を与えると異なる方向に向かって広がる。そんな感じ。うまく言葉で言い表せませんが。
でも、あの時は考えてもいなかったことですが、その途中で瞳が東京に行って渡辺プロと契約しちゃった。僕はプロになるつもりもなかったし事務所にも入りたくなかった。入ってみたらスケジュールは2年先まで真っ黒です。しかし、契約は2年ごとの更新でその間はどうにもならない。
僕はメンバーに話をして独立する準備を進めていました。でも、ダメでしたね。契約書にサインしないのは僕だけでした。
そんなある日、楽器店のビルで新曲のリハーサルをやっていた時のことです。休憩時間に部屋のドアが開いたんです。目の前にはちょうどエレベーターがあった。僕はそれに引き込まれるように乗って下に降りました。そして、そこにタクシーが止まっていたので、そのまま乗っていました。
僕がいなくなって、入っていたスケジュールがキャンセルになり、大変だったようです。今だから話せることですけど。
60年代から僕が聴いていたような音楽が出てきたのは戦争があったからです。ベトナム戦争のしわ寄せです。僕もその辺はいつも気にしていた。タイガースをやめた年の暮れには反戦を訴えるミュージカル「ヘアー」をアメリカから持ってきて、公演しました。
民主主義って何かを考えることがあります。民主主義は多数決だけじゃないんです。人の尊厳を理解、尊重すること。それが僕の生き方の一番のべース。それも大切なのは哲学といった理屈じゃなく、音楽や芸術を通して心の感性に訴えていくことだと思っています。
(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)
提供元:Yahooニュース